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稲庭うどんの発祥地は、秋田県の南部、稲川町稲庭というところです。もっともその頃は「雄勝郡稲庭村」という地名でしたが、明治35年に町制がしかれ、昭和31年に稲庭町、川連町(川連漆器とこけしが有名)、三梨村(三梨牛と小麦が有名)、駒形村が合併して「稲庭川連町」となり、昭和41年に「稲川町」と変更になりました。
『稲川町史』によると、稲庭うどんをはじめて製造したのは稲庭村小沢の佐藤市兵衛という人だといいます。市兵衛の作った干しうどんは他の麺とは比べようがない位、上品な味がしたそうです。菅江真澄(1754〜1829、学者)がこの地を訪れてまとめた著書「出羽路」に、稲庭うどんの名声は高く、各地で知られるようになったと記しています。その後、記録に残っている最初の年号では、寛文5年(1665年)に佐藤吉左衛門(後に稲庭姓を名乗る)が稲庭干しうどんの製造を始めた、とされています。間もなく秋田藩主の贈答用を含む御用品となりましたが、非常に評判がよく、徳川家をはじめ各方面から所望されたそうです。
そして稲庭吉左衛門家の一子相伝の稲庭うどんの製法を伝授された四男が、佐藤養助家の養子となって「二代目佐藤養助」を名乗る事となり、稲庭うどんの製造をはじめたのが万延元年(1860年)でした。ちょうど井伊直弼が殺された「桜田門外の変」の頃です。
その後、明治10年の第一回内国勧業博覧会、第三回(明治23年)、第五回(明治36年)で褒状を受け、また明治20年には宮内省御用となるなど、その名声は高まる一方でした。しかしながら、実際にはほとんど一般には出回りませんでした。というのも、昔ながらの手づくり製法で品質を守り、量産しなかったからです。
昭和53年弊店が出店するにあたり、「七代佐藤養輔」の干饂飩を御紹介する縁が結ばれこれを期して屋号を「いなにわ」といたしました。これからも本場の手綯特選麺を極上の茹で加減と秘伝の御出汁で皆様に御提供させていただきます。
西麻布いなにわ